秋葉原無差別殺傷事件について

これについては被害者のこと、加害者のこと、秋葉原のこと、写真のこと、ustreamのこと、そして自分のこと、語りたいことは山のようにあるのですが、それら全てを誤解なく文章で伝えきることは不可能であると判断しました。ただ、断片的にですがそれでも書きたいことを以下に書くことにします。

6/9;非日常的な光景の中、私がしたこと - ぐんにょりくもりぞら

ustream配信の件です。内蔵カメラが着いているEeePCイーモバイルの回線を持っている私も、その場に居合わせれば、ごく簡単に同じ事が行えました。技術的には。心理的にどうなのかというと、現場の心理を再現できないのでなんともいえないのですが、やった可能性は高いと思います。私もニュースサイト的なサイトを運営していますから、真っ先に情報を伝えたいと感じた可能性は大ですね。視聴者が2000人ともなれば、報道の現場に立ち会ったという実感も湧くことでしょう。


簡単に不謹慎と言って切って捨てるのは思考停止です。湾岸戦争なんて大量殺人の現場をバンバン中継していましたからね。日航機事故のときだって、肉塊に成り果てた遺体の写真がたくさん週刊誌に掲載されました。ピュリッツァー賞を取った「ハゲワシと少女」の写真について知らない人は知っておくこともいいと思います。


ただ個人で多数に報道してしまうことの危険っていうのは、バッシングを一身に一個人が受けてしまうことですね。TV局なり新聞社なりが凄惨な現場を報道したとして*1、苦情やバッシングを受けるのは法人ですが、ustreamで個人がやるとそのリスクを全部一人でかぶらなくちゃいけない。報道の正しい・間違っているはともかく、そこは危ないなと思いました。


ustreamは日本だけでなく、世界中に生中継を一個人が出来てしまうサービスです。こんなツールを一個人が得られるようになったことの意味と影響について、もっと考えなくてはいけないでしょう。簡単なレッテル付けをして思考停止してはいけないと思います。


参考:秋葉原事件で融解した「野次馬」と「報道」の境界

[mixi] カズ←金欠('A`)さん | 交通事故 なんで俺らが・・・

インターネットは重大事件の被害者の生の声に直接接する機会を作ってしまった。ここから、被害者達にカメラを向けることの恐ろしさというのが垣間見える。今すぐカメラを捨てて助ければ良かったのだろうか? 無力なら立ち去ればよかったのか? どうすればよかったんだろう。しかしカメラを向けた人間が、被害者の心を傷つけたのは間違いない。


個人が報道できるようになってしまった今、被害者にカメラを向けることの是非も考えなくちゃいけなくなってしまった。当然マスコミは被害者の写真を撮っている。懸命に救命措置を行う人の姿(これは個人特定できそうなレベルで写っていた)と、真っ白な顔をした被害者(ただし人相までは判別できなかったが)、流れ出た血もはっきりと写っていた。

2008年6月8日千代田区外神田の中央通りで起きた事件について|桃井はるこオフィシャルブログ「モモブロ」Powered by アメブロ

私も10日の19時半頃、献花台の前を通った。すごい数の花束と、未だに居る撮影スタッフ。そして人だかりが出来ていて、とにかく異様な光景だった。とても勇気を出して一歩前に出ることが出来なかった。自分には勇気がなかった。少し哀しかった。心の中で手を合わせた。


献花台の前でフラッシュを炊きまくるマスコミに関しては、批判している人がほとんどだと思う。私もあそこが静かな場所だったら、もう一歩出てちゃんと手を合わせることが出来たんだと思う。しかしマスコミの方々は何故そこまでして遺族関係者の絵が欲しいんだろうか? やはりその絵が価値をもつからなんだろうか。その絵に価値を持たせているのは誰なんだろう。何故彼らをあんな行動に駆り立てているのだろう? 考えるのは無駄じゃないはずだと思った。

被害者かわいそう、犯人は殺すぐらいなら自殺しろ 死刑になれ! のようなたくさんの言及を見て

良くある言及で、誰もによぎった感想じゃないだろうか。多分仲間内で事件のことが話題が挙がったときに、このような意見を述べたとして、共感を得る可能性は高いんだろうな、と思う。被害者の方々が言葉では言い表せないようなご不幸にあったことは事実だ。


しかし自殺すればよかった、というのは一体どういうわけなんだろう。鬼畜に生きる価値なしということか? しかし事件も起こさず自殺すれば、一介の自殺者に過ぎない。自殺対策基本法が制定された世にあって、自殺しろとは何事か?
ねっとさまりー: 読売新聞が加藤容疑者に対して「自分ひとりが世をさればいいものを」
と思ったら恐るべきことに新聞記者までがそういっている。無責任すぎやしないか。


死刑にしろ! というのはどうだろう。確かに被害者の数からして、加害者が死刑になる可能性は高いだろう。だからといって死刑にしろ! と個人が振りかざすのはどうなんだろうか? 被害者・関係者が言うのはまだ理解できる。しかし日記やブログを書いた大多数の人間は事件に無関係な一般の市民じゃないだろうか。それが人に死ねという。その発言が個人の正義感を満足させるのだろうか? ともかく率直に恐ろしいと思った。
そろそろ秋葉原の事件について語ってみるか - タケルンバ卿日記
どうやら加害者は自分とは全く関係ない世界のことだと思っているようだ。本当にそうなのだろうか? 加害者のことを理解するということは加害者を擁護することではない、と私は思っている。擁護・弁護とは別に、加害者のことを知ることで、得られるものはあるのではないか。全くないと言い切る根拠はなんなのだろうか。

*1:@kenan_は被害者・加害者ともに撮影していないそうだ